私の中に屁理屈は存在しない、と思いたいがどうなんだろう

私は屁理屈を言う側の人間だと思います。

ただ自分自身が周りに比べて賢いという認識ではなく、むしろ劣等感を体感してきたがために理論武装で補填してきたように思います。 仕事に慣れてきた現在でも、常に周囲と違う意見・価値観を持っている感覚が未だに抜けません。

子供のころ、意見するとき「それは屁理屈だ」と言われることがあったし、 大人になっても時折、「難しいことを考えすぎ」と言われてきました。 そんな人生を歩んできました。

実力と不相応な完璧さを求めて勝手に問題解決の難易度を引き上げている側面はあると思います。 そんな自分自身の思想の偏りも含めて、現時点で考えているのがタイトルの「屁理屈は存在しない」ということです。

私自身の解釈としては「屁理屈は、限りなくゼロに近い不十分な理屈」と考えています。 なんとなく私が考える皆さんの解釈している「それは屁理屈だ」というときの屁理屈は「見当違いの理屈」よりも「生意気で、ムカつく奴で、馬鹿にしてくる、揚げ足取りの人間で到底理解できない考え方なのでそれ以上話す必要がない」という認識の方が強いのではないかと思います。 私の場合は少し違って、温度感が伝わればいいのですが、ネガティブからネガティブでもポジティブでもないニュートラルなものになっているという感覚です。

身近な人間には話せないし、話して納得してもらったとして何が変わるわけでもない話だなと思っています。 よくわからないと思うので実例と一緒に考えていることを書いていきます。

パターン1 よそはよそ、うちはうち

中学生「iphoneがほしい!」
親「買わない!」
中学生「みんな持ってるのになんで買ってくれないの!?」
親「屁理屈言わない、よそはよそ、うちはうち!」

あるあるな王道のパターンで、最後はどちらもイライラして終わってしまっているような状況だと思います。 子供側の「みんながもっている」という意見は確かに事実として存在しているものの、周囲の所有率は購入の必然性が全く直結しないので、提示する根拠としては薄い理由です。 親側にメリットがなく、高額な支払いがあったり昨今のSNSでの事故事件を考えると、デメリットしか感じない親が存在するのも無理はありません。 ただ親側が投資者である以上は強制的にルールを作ることの理屈は分かるものの、子供が納得するかどうかの理由としては不親切だと思います。 となると親も子供も互いを説得させるために別の根拠が必要になるはずです。

個人的な理想的は、こんな流れです。

中学生「iphoneがほしい!」
親「買わない」
中学生「みんな持ってるのになんで買ってくれないの!?」
親「それはあんまり買う理由にはならないな、なんでみんなが持っているとあなたも買わなきゃいけないの?」
子供「みんなでゲームするときに輪に入れないから嫌だ」
親「たしかにそれは同情するし、できれば買ってあげたいけど、iphoneは高い。今の貯金で買えなくはないけど、何でもかんでも無制限に買い漁っていたら破産してしまう。どこかで基準がないと突然の病気だったり、車の故障だったり備えないといけない。命の方が大事だから嗜好品を闇雲に買えない。」

となり、 子供の意見がiphoneを買ってほしい理由の「みんな持ってるから」は、 「屁理屈」ではなく、 「現在の貯金と将来の必要資金を踏まえると、購入を決断するのに不十分な理由」になるだけです。 となると議論は子供の屁理屈で終わらずにいくらでも進めることができます。 解決案を提示するなら例えば、

・バイトをすればいい→校則で禁止されている→バイトができる高校に転校すればいい→そこまでしてほしいのか?という新たな問題もでてくる
・学校に隠してバイトしたらいい→履歴書を偽ってバイトしたらいい
・一旦立て替えておいて、初任給で必ず返してもらえればいい
・何かを諦めてもらい、入手するならOKといった条件付き許可を出す
・多少、資金面で譲歩できるのであれば、納得できるような格安スマホ&プランで資料をまとめてもらって提示してもらえばいい
・子供に納得感があるかどうかは別として、シンプルに「情報の質をコントロールできないので、教育方針として所持を認めない」でもいい

つまり屁理屈で終わっていた話が、解決するかどうかは別として次の思考と行動に向かっていくだけになります。 「屁理屈言うな」で終わっていた結末と同じく、最終的にiphoneを買えなくても物理的に実現不可能で「仕方ないか」で終わる状況も想定できますし、 「ゲームやSNSは教育に悪影響」といった宗教的な価値観の問題で子供側からすると理不尽に終わることも普通に想定されます。 ですが、本来なら存在していなかった理由の解像度が上がり、屁理屈と言われていた思考は完全な理由になり、納得感のある理屈が完結します。 買えなかった場合に生まれるであろう劣等感や、コンプレックスなどは別の問題です。

パターン2 なんで俺だけ?

警察「スピード違反です、罰則があります」
運転手「なんで俺だけ?他の車も同じぐらいスピード出してるでしょ」

警察24時を見ているとよくある違反者の状況です。 この運転手の「なんで俺だけ?」は警察にとっては屁理屈に感じてしまうだろうなと思います。 前の車に着いていっただけなのに自分だけ捕まってしまったような状況だと確かに運転手の納得感は低いです。 ですが、道交法違反なので反論の余地はありません。

例えば、運転手が言ったとおりに見逃してしまうと、 「前は見逃してくれたのに」
「全員捕まえることができなければ見逃す」
といった前例ができてしまうことになります。 そもそもルールの存在意義がなくなってしまうことを意味してしまいます。

「他の人もやってるのになんで俺だけ?」という理由は屁理屈ではなく、 ただ「自分自身が道交法の違反基準に該当した」を覆すだけの理由になっていません。 この場合は不十分というより、限りなくゼロに近い不十分といったほうが個人的な感覚として近いです。 意図的にやっているかは分かりませんが、見逃したりする理由にはならないので論点ずらしであることを指摘する流れが良いのではないかと思います。

運転手「他の人もやってるのになんで俺だけ?」
警察「違反したことには変わりないから点数は引くし、罰金もある。見逃す理由にはできない。」
警察「最初に見つけてスピード測定したのが君だから今は君の対処させてもらっている。違反者は順番に対処させてもらう。」

もちろんこの問題の議論の余地があって ・複数の車で見つけた違反者をどうするか?1台以外は無視していいのか? 個人的にその程度の頻度の高そうな問題は何らかの対策は取られていて、すでに議論し尽くされているはずだろうと想像しています。 少なくとも違反した運転手と警察の間で他の違反者の処遇を議論する必要はないと思います。

パターン3 マニュアル人間

コンビニ店員「アルコール購入の年齢確認のボタンを押してください?」
ハゲたおじさん「未成年に見えるか?」
コンビニ店員「申し訳ございませんが、ルールでして皆様にお願いしております」

コンビニ店員が屁理屈言ってるように見える人がいるようです。他にも ・昨今のサービス業は口を開けば「マニュアル、マニュアル」と機会的な人間が増えて人間らしい温かみのある接客ができていない、 ・「おつり1000円になります」とか言うし日本語がなってない、
・「タバコの銘柄ぐらい覚えろよ、お金払ってるだろ??」
・「どうみても未成年に見えるわけ無いだろ???」
とこんな感じでしょうか。

私はコンビニで働いたことも調べたこともないので、事実は全くわからないのですが、 このお酒の購入ボタンの存在意義はなんとなく下のように理解しています。

例えば
コンビニ店員「30歳ぐらいの男の人に年齢確認せずにお酒を販売したけど、あきらかに未成年じゃないから大丈夫でしょ。」
30代に見える男性「コンビニの前で仲間と飲むお酒はうめーな」
友人たち「だよな~」
警察「今日にすみません、職務質問させてもらえまえせんか?」
30代に見える男性「何もしてねーよ、免許証ほら」
警察「あ、19歳なんですね~。あれもしかしてお酒飲んでます?だめですよ。どちらで購入されました?」
30代に見える19歳男性「そこのコンビニだけど」
警察「あれー年齢確認されずに普通に買えました?」
30代に見える19歳男性「なんも言われずに買えたけど?べつに良くね?」

コンビニ運営者はこれをどう回避したらいいでしょうか? 80歳ぐらいなら見た目でもいいかもしれないですね。 そういえば世の中には老けて見える病気もあるみたいですよ、どうしましょう。 50歳なら、40歳なら、30歳なら、25歳なら、21歳なら見た目でいいでしょうか?

こう考えると、最終的に品質を一律に判定できる現在のタッチパネル方式になったルールも納得がいきます。 ただコレを書きながらちょっと調べたのですが、未成年にお酒の販売した場合、タッチパネルでの同意確認していても罰則の回避にはならないみたいです。 とはいえコンビニ運営者側としては見た目と実年齢の乖離や、店員ごとの判断のブレは問題として残っている以上をなくすための苦肉の策として考えついたのだろうと推測しました。 穴はあったかどうかは一旦別問題として、少なくとも発端は漏れをなくすための、責任回避のためのシステムだったことが想定できます。 あきらかに成人している人物に対してでも「もれなく全員年齢確認する」は屁理屈ではなく、安全なサービス設計の形跡として意図が感じられます。 つまりマニュアル人間の「屁理屈」ではなく、運営者側の都合による「理屈」だったということです。

パターン4 生意気な私

屁理屈は存在しないとは思いつつも、 自分の中で世の中で言われているような温度感の屁理屈に一番近い発言はなんだっただろう? と思い返すと、

自分が先輩に何か意見したときの 「年上に向かってなんだその態度は!」
「俺とあいつのどっちの言う事聞くんだ!?」
と返答された発言は理由として受け入れられなかった記憶があります。 ※詳しくは省きますが、状況や立場・役職によっては受け入れることもあります。

例を挙げると「野球をしているのに、サッカーのルールを言い出す」ような感覚です。

先輩「ボールは手でさわるな!サッカーはそういうルールだろう?」
私「サッカーは別の日にやることもありますが、今は野球をしていて野球はボールを手で触っても大丈夫なルールなんです」
先輩「年上に向かってなんだその態度は!」
といった感じです。

この場合の私の理想の流れは「今はサッカーの話は関係ないことに気づいていてもらう」ことで「何だその態度は!?」といった屁理屈のようなものを再構築をしてもらえればいいだけなのですが、 「気づいていないだけの状況」が「理解を拒絶する状況」になったとき、 それ以上の議論が進展しない場合は唯一、結果的にみなさんと同じ温度感の屁理屈の認識になることはあり得ると思います。 と同時に言い換えれば意識的に屁理屈にしなければ、両者が諦めない限り、屁理屈は起こり得ないという認識でもあります。

両者の考え方の妥協点、職場や学校などコミュニティ・環境の外部的な影響が重なり合う範囲を両者で模索することで屁理屈はなくなります。 屁理屈といわれる多く理屈は、考慮する要素の不足・利害関係にある登場人物それぞれの視点不足から発生します。 屁理屈を言う側も、言われる側もその過不足を補足してただただ冷静に修正していくだけで屁理屈は理屈になり、最終的に次の問題解決に移っていくだけになります。 それでも最終的に意見の相違が発生した場合は、運営者やそのコミュニティの権力者に決定を委ねればいいだけだと思っています。

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長々と書きましたが、私は私の屁理屈を論破してくれる人がただ欲しいだけかもしれません。 悩みになりきらない悩みを持って囚われてしまっているなと思います。